震災から1年が過ぎた。


自分の記録のつもりで書いた昨年4月の私のブログを読み返してみた。少し前まで、昨日のことのように思い出された当時の記憶も、少しずつ遠い思い出のようになっている。

雑誌やテレビで震災特集を色々やっている。書店にはたくさんの写真集が並んでいたが、私は、当時の報道を見たくて、河北新報の特別縮刷版を買って見た。日々の記事を読み返すと、遠くなりかけていた当時の記憶が蘇ってくる。トラウマを蒸し返すわけではないが、決して忘れてはいけない記憶たちでもある。


現在、仙台市内は何の変哲もなく日常を取り戻し、建設や不動産、サービス業が、空前の震災復興バブルに沸き、仙台は今や、日本一好景気の街となった。一方で津波被害に遭った沿岸部をはじめとする、いわゆる被災地の復興が遅々として進まない現状もある。東北の本当の復興はこれからが正念場である。

当院は、仙台市内の患者さんも多いが、以前より、岩手県久慈、宮古、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼、女川、石巻、多賀城、名取閖上、相馬、南相馬と、テレビで連日報道されていた地域からも多数の患者さんが来院されている。
当時私は、大震災でこれだけの被害が出たのだから、きっと日々の復興に必死で、わざわざ不妊治療をしようという人がどれだけいるのか、と考えた。 地震や津波の被害を受け、テレビで連日放送される地名は、まさに私たちの診療圏であり、診療の現場で毎日見た地名そのものである。報道を見るたびに、私はいたたまれない気持ちになった。だから、震災後、当院の今後を考えていた時、私は向こう一年は当院は閑古鳥だろうと思った。

でも実際は違った。現実は、比較的被害が少なかった内陸や日本海側の方だけでなく、津波で自宅ともども全てを流されながら九死に一生を得た方、そこまでの被害でなくても自宅、職場、家族に大きな被害をお受けになった方が、藁をもすがるような思いで大勢当院に来院されたのである。何とか望みを叶えたい、毎日、祈るような気持ちで不妊治療を提供した。
 

クリニックは当時、ほとんど被害もなく、電気がつけば今までの日常そのものであった。被災の大変な中、「今までの日常」という名の非日常がある、クリニックに来るとほっとする、という患者さん、スタッフがどれほど多かったことか。「いつも通り」がどれだけありがたいことなのか、という当たり前の事実が、平和ボケしていた私の胸に深く突き刺ささる。
 
私は不妊医であると同時に、一人の医師であり、当時、このままここで不妊治療に携わっていてよいのか、というジレンマと毎日戦っていた。若い頃こそ、総合病院の救急外来で全科当直をし、救急車をどんどん受け入れていたこともあったが、冷静に考えれば、今私が被災の現場に行ったところで、大したことはできなかったはずである。それでも当時の私は、葛藤していた。
一方、被災地に新しい命、希望の光を吹き込むことも立派な復興支援になることは頭では分かっていた。それは今、私たちがやらなければ誰もやらない状況なのだ。私には私に役割があり、私を求める人がいる以上、職務を全うしようと思いなおした。医師でありながら誰の命も救いに行けない懺悔の気持ちを胸に、1人1人に心をこめて対応した。当時の外来はガラガラで、待ち時間が少なく、充分なお話と説明、心のケアができた。「どこから来院されているのかな」「ご主人の御仕事は何かな」「どんな思いで赤ちゃんを望まれているんだろう」と思いを寄せ、なけなしのガソリンを使い、交通手段も限られた中で、すがる思いで来院された患者さんたちといろいろな話をしながら、いろいろなことを考えた。皮肉なことに、震災を機に、私たちのクリニックは開院以来、最も理想の診療を実現することになった。
仙台は新幹線が開通した5月ごろから本格的に日常を取り戻し始め、外来患者数は6月には震災前と同じ状況になり、7月からは前年同月を上回った。この1年は、「絆」「いのち」の1年であり、新しい「家族」を希望される方がとても増えた。今の当院は、今までで一番混雑している。多忙のあまり、日々の外来は、理想的な状況とはいかないことも多いが、ひとりひとりの「思い」を強く感じながら仕事をした1年となった。



当院は、去る3月1日、ひっそりと開院5周年という節目を迎えた。


そして、きょう3月11日、地震から1年を迎える。

私は、つらい時、悲しい時、いつもこの言葉を思い出す。
「明けない夜はない、やまない雨はない、明日は別の日、がんばろう」

医師 土信田